平賀 譲
Jyo HIRAGA
1878-1943
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総長就任
1938(昭和13)年より、東京帝国大学総長を務めた。
平賀粛学
平賀の総長就任当初の東京帝国大学経済学部では派閥争いが問題となっていた。河合栄治郎教授を中心とする自由主義派と、当時経済学部長だった土方成美教授を中心とする国家主義派との派閥抗争により正常な学部運営が不能な状態となっていた。
平賀は経済学部の混乱を収拾するため、問題の原因となった河合教授、土方教授を教授の職から辞めさせた。河合教授、土方教授の辞職に続き、両派閥に属していた教授、助教授、助手たちは立場上辞めざるを得なくなり、13名が大学を去った。結果、経済学部に残るのは、教授4名/助教授2名の計6名のみだった。これがいわゆる「平賀粛学」である。
その後、人員の整理などに尽力し、経済学部を再建の軌道に乗せた。
大学家族論
経済学部の再建作業に終止符をうった平賀は、翼賛体制へと変転する時局に耐え自治を貫ける大学の体制作りを目的に、大学家族論をうち出した。
家屋が一つの独立単位として自立しているように、大学をあげて一大家族の自覚をもってこそ大学の自治も許されるという発想だった。そして、この時代の変局で大学の自治を維持させるには大学を一元的な統制のもとにおき、全体のために小我を捨て、家族的精神に徹するしかない、と平賀は考えた。
「家庭と大学との緊密な連絡」を指針として東京帝国大学の50年式典にて大学家族論を発表したのである。
学徒動員(戦時下の大学の体制)への抵抗
当時第二次世界大戦の渦中にあり、日独伊同盟は劣勢に立たされた。国内では、戦力不足を補うべく戦争体制への国民統制はますます強化されていく。
その流れを受けて文部省は学生の就学期間を短くし、できる限り早く学生を卒業させ、兵役に就かせようと考えた。そして、「昭和17年3月卒業の者は3ヶ月、昭和18年3月卒業の者は6ヶ月就学期間を短くし、早く卒業させよ」と命令した。
平賀は学生の学力低下になり、学生の今後に響くと反対した。しかし、国の圧力は強く、平賀総長の目の行き届かないところで大学運営への介入がなされるようになっていった。ついに、文部省は勅命を発し、学徒動員を強行したのである。
総長としての最期
東京帝国大学総長に再任の後、1943(昭和18)年2月17日 その無理がたたって春を待たずに急逝した。男爵の爵位につく。