平賀 譲

Jyo HIRAGA

1878-1943

 

 

 

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英国留学
  1901年に横浜を後にした平賀は、なんと運命的にも戦艦ドレッドノート起工前日に英国海軍大学校に入学する。そこでは、一応の実地を身につけた技術官に対する理論教育を主眼にしていたため、実地の軍事工学を期待していた平賀を満足はさせなかった。しかしながら、夏期休暇など学校がない間はドレッドノートなどの建造を観察し感動しつつも、情報を細大漏らさず本国に送った。また、このとき作った人脈が後々平賀にとって非常に貴重なものとなった。1908年に英国海軍大学校造船科を卒業した後も、フランスやイタリアの造船所に視察の足を伸ばしたりしてさらに五ヵ月半を送った。その後同年12月12日に帰国する。
   
平賀譲と藤本喜久雄
 
上司部下の関係であった平賀譲と藤本喜久雄は前者が努力型とするのならば、後者は天才型であった。そして保守的な技術にこだわる平賀と前衛的な技術を使用せんとする藤本の間ではしばしば意見の行き違いがあったようである。また、平賀自身職場では「不譲」といわれるほど妥協をしない人物であったため、周りからも嫌われるようになる。そして、イギリス出張を期に平賀は閑職へとおいやられることとなる。平賀が、閑職へと追いやられたことで藤本が艦船建造の指揮を執ることとなる。ここで藤本は技術に対して保守的な平賀から拒否されていた技術(溶接や軽金属の使用)を用いていく。しかしながら、友鶴事件や第四艦隊事件などで藤本の建艦方法が海軍内で否定されることとなる。そして、平賀は再び艦船建造の指揮を執ることとなる。
   
平賀譲による軍艦設計の略歴
 
平賀が最初に軍艦建造に携わったのは雑船や水雷艇の修理である。その後イギリス留学をへて「八八艦隊」の基幹となる長門、扶桑型設計にあたり、山城は建造にかかわる。しかしながら、ワシントンで軍縮条約が締結されたため、加賀型や山城型などの建造がストップされる。そのかわり、条約型巡洋艦の質的向上を目指し、夕張型巡洋艦を建造することとなる。この後左遷にあい、建造業務からしばらく遠のくこととなる。しかしながら、世に有名な戦艦大和型の計画である「A140」計画に携わることとなる。