上司部下の関係であった平賀譲と藤本喜久雄は前者が努力型とするのならば、後者は天才型であった。そして保守的な技術にこだわる平賀と前衛的な技術を使用せんとする藤本の間ではしばしば意見の行き違いがあったようである。また、平賀自身職場では「不譲」といわれるほど妥協をしない人物であったため、周りからも嫌われるようになる。そして、イギリス出張を期に平賀は閑職へとおいやられることとなる。平賀が、閑職へと追いやられたことで藤本が艦船建造の指揮を執ることとなる。ここで藤本は技術に対して保守的な平賀から拒否されていた技術(溶接や軽金属の使用)を用いていく。しかしながら、友鶴事件や第四艦隊事件などで藤本の建艦方法が海軍内で否定されることとなる。そして、平賀は再び艦船建造の指揮を執ることとなる。
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