| 今回この寄稿にたいして二つの観点から論理展開をしつつ戦艦大和がたとは何だったのかを私なりにまとめてみたいと考える。また、平賀譲を考える際に大和型のみの言及では不十分問い考えからもいくつかの参考文献を加えつつ話を展開できることができたらと考えている。
二つの観点とは何なのか、一つは日本の軍事的ドクトリンと当時の軍事的な世界状況における大和の価値について。二つ目は技術的に大和の評価をどのようにくだすか。特に後者は実際に大和型が使われることとなった第二次世界大戦の技術との比較を山本先生の寄稿をもとに彫り深めようと考えている。
では、早速日本の軍事的ドクトリンと当時の軍事的な世界状況における大和の価値について考えていく。
まず、日本の軍事的ドクトリンについてであるが、大和型が問題になる当時の軍事的ドクトリンを決定することになった日露戦争直後を検証してみる。
三つの観点から日露戦争が後の日本軍に与えた影響を考える。一つは海軍について、二つ目は陸軍について、三つ目は日本の国防ドクトリンについてである。
一つ目の海軍についての影響について考えていく。日露戦争における海軍といえばバルチック艦隊を壊滅させた対馬沖海戦が有名であるが、これが後の日本海軍のあり方を決めることとなる。どれくらい完璧な会戦であったのかその戦果を紹介しておく。38隻のロシア主力艦の中、沈没21隻、降伏・拿捕7隻、中立国に逃げ込み武装解除されたもの7隻、残り3隻の小艦艇が目的のウラジオストックに到達したのみであった。また、一方の日本側の損害は水雷低3隻であった。まれに見るワンサイドゲームである。この海戦があまりにも完璧であったため、この海戦を絶対視し、すべての海戦はこの海戦のとおりに完結すべきということになった。そして海軍がこの海戦を帰結点と考えることですべてはこの海戦を原点とする思考常態になっていく。そして、海戦が結果的にこの戦争終結の重要なポイントとなることで、海戦で勝利した側が戦争に勝利するものと考えるようになる。結果として、海軍は一回の対馬沖海戦のような一回の海戦を作り出すという戦術的思考がほぼすべてとなっていったのである。
次に、二つ目の陸軍について考えていく。陸軍はこの日露戦争後、実に日本人的というほかない変化を遂げる。現在、よく聞かれる「日本陸軍は満足な武器もなく銃剣による突撃のみだった」という法則は日露戦争前の日本陸軍には当てはまらない。なぜならば、明治維新後の日本陸軍は始めこそフランス陸軍を手本としていたが、ドイツ陸軍の信奉者となる。そして当のドイツ陸軍は圧倒的な火力主義軍隊であった。そして当然のごとく日本陸軍も火力の集中などといったドイツ型火力主義へと染まっていく。しかし、日露戦争後白兵主義へと転換していくこととなる。山田朗氏によって三つの原因が挙げられている。一つ目は、戦勝初期はドイツ式の火力主義で戦闘を行っていたが、すぐに弾薬の生産が追いつかなくなったこと。なんと最終的には投石まで行っているということから弾薬の欠乏度が容易に想像つく。二つ目に戦争中の日本軍は、その生産能力が関係しているのであると考えられるが要塞戦にほとんど効果のない榴散弾を主に使い続けたため、砲兵の効果がほとんど見受けられず、砲兵に対して不信感が増してしまった。最後に、ロシア軍がフランス式白兵主義であったため、その白兵にしては損害率が低かったというところに注目したとおっしゃられている。私もこれらがおそらく白兵戦主義転換への主要因なのだと考えられるが、日本人のドメスティックな感情がもっとも影響していると考えられる。つまり、海外と同じ武器生産力をつけるのではなく、現状に合うように組織を変換したということだ。
最後に日本の国防ドクトリンへの影響を考える。その前に先の二つを簡単に振り返る。海軍は一度の主力艦の砲戦を目指す組織となり、陸軍は白兵戦による突撃主義となった。では日本全体はというと、日露戦争によって弾薬の生産力不足と戦費不足に悩んだ結果、短期決戦を目指すこととなる。つまり、最後の大戦のような長期的作戦を戦う能力を目指すことを断念するのである。これは1907年に作成された「帝国攻防方針」によって定められることとなる。また、仮想敵国に関しては陸軍がソ連、海軍がアメリカという軍部で一致しない仮想敵国を育てていくこととなる。これは私の印象としては地政学的にソ連の脅威とアメリカの脅威ということから発生したことというよりも、陸軍や海軍の存在意義を正当化させるための組織防御的な選択によるものと考える。
では大和設計時の戦艦というものに対する世界状況を考えてみることにする。このことについては二つの観点から考えてみることとする。軍事的価値としての戦艦についてである。
まず、軍縮条約に関しても戦艦の軍事的価値に関しても重要な事柄である第一次世界大戦に関して触れていく。特にこの戦争が日本の国防に与えた影響について言及する。今回海軍と対比する意味で陸軍についてもいくつか具体的な話をあげている。そこで第一次世界大戦に関しても陸軍に与えた影響を考察する。具体的には日本の生産能力では世界の陸軍とは渡り合えないということをこの戦争がまざまざと教えたというのが主であったらしい。なぜならば、当時の日産砲弾製造量に触れるだけで明白なことがわかる。具体的に数字を出すと、ロシア11万発、オーストリア16万発、イギリス29万発、フランス31万発、ドイツ44万発であった。一方日本は月産で10万発が可能であると推定されているだけに過ぎなかった。つまり、ヨーロッパ各国は日本が数ヶ月かかって生産する砲弾数を一日で生産してしまうのである。このことによって、先ほどいった軍需能力に合わせた日本式戦術思考である白兵戦主義に染まることとなる。
では海軍はどうなのであろうか?大戦前と大戦中の海上の話を多少したいと思う。大戦前、世界はマハン理論という一つの理論に基づいた大建艦競争時代であった。簡単に言うと、彼は当時植民地政策などでイギリスが成功していたのは強力な海軍によるものだということを歴史を用いて実証した。現に、イギリスは世界第2位と3位の海軍力の合計兵力を保有する方針である「二国標準政策」をとっていた。そんな中、日本はどうだったのかというと建艦競争の象徴でもあるドレッドノートが完成した1906年前後にこの競争に参入した。日露戦争で使用された主力艦はすべて外国製であった。しかしながら戦争中に国内の呉・横浜海軍工廠で主力艦クラスの建造が可能な状態になっている。だが、常にイギリスが一クラス上の軍艦を作ることで完成させた瞬間2流となる戦艦が多かった。そんな中で、日本が競争においてリードする現象がおきる。それは金剛型巡洋戦艦の建造である。この戦艦が完成した当時、この戦艦以上の火力の艦は存在しなかった。しかし、皮肉なことにこの艦を完成させたのはイギリスのヴィッカース社であった。このような中、第一次世界大戦が勃発する。勃発当時の弩級戦艦はイギリス16隻、ドイツ17隻、フランス3隻、アメリカ8隻、日本2隻であった。大戦中、日露戦争における対馬沖海戦のような艦隊決戦はおきなった。ただ一度だけユトランド海戦があるが、これにしても主力艦の損失としてはイギリスが3隻、ドイツが1隻であった。対馬沖とは非常に差があることがわかる。そして、この戦争終結に寄与したのは艦隊決戦ではなく、国民の意思の反乱であった。つまり、この時点で世界中の人間の意識の中では最終兵器として戦艦が存在していたが、おそらく戦艦はその役目を終えていたのだろう。
ではなぜ、ポストユトランド型から始まる建艦競争が始まったのだろうか?
(戦争中におこったユトランド海戦ではイギリスの最新鋭巡洋戦艦が沈んだことから、ポストユトランド型といわれる重装甲かつ巨砲の搭載という更なる大艦巨砲へと世界は傾倒していくこととなる。)
大戦後あまりにも世界中が建艦競争に傾倒するあまり、各国の国家財政を脅かすこととなっていく。具体的な例を挙げると日本では1921年度の海軍予算は国家予算の31.6%にもなっており、軍事費全体では49%にもなっていた。一方アメリカに関しても連邦予算に占める軍事費の割合は1921年度には35%に達していた。そうして建艦競争がヒートアップしていった最後に軍縮という形で落ち着くのである。
この時期の戦艦の存在意義はなんだったのだろうか?差し迫った軍事的脅威が存在していたとは考えられない。ということは脅威に対抗して作っていたというよりも戦艦を利用したパワーポリティクスに陥ったのではないだろうか?つまり、戦争の道具としての存在よりも無政府状態における世界で発言力を増すための道具として使われたと考える。現に発言力よりも大切な国家財政破綻という難題の前では各国とも軍縮に調印している。つまり、戦艦の存在意義が国家の死活問題になっていなかったということがわかる。
軍縮条約の期限が切れることを見越して、各国が建艦競争を再開するわけである。莫大な資金と資材を使い戦争にはほとんど役に立たないものを。戦闘をするためという意味合いよりも、存在することでこそ役に立つといった意味合いに変わったものを作り始めたのである。以上のことから言えることは、大和型は理想的な使用方法ではなかったのではないかという結論に達する。つまり戦争をしないならば大和型はすばらしい兵器であったが、戦争を始めた瞬間陳腐化してしまう存在だったと結論付けることができる。まとめると、まず、戦艦は純然たる兵器として存在し、次に政治的発言力を増やすため現在核兵器がおかれているような抑止力となった。そして最後にはモニュメントとしてのみ存在価値があったといえる。
では、技術的に大和型はどうであったのだろうか?詳しくは山本先生の寄稿を読んでいただきたい。ではそこから考えうることは何なのだろうか?二つの観点から検証してみる。一つ目は技術的な大和の評価、二つ目は技術的な大和型の価値である。
一つ目の技術的な評価をしてみる。そうするといくつかのことが言えてくるのであるが、山本先生がおっしゃるとおり大和型にはいくつかの受け入れられない欠陥がある。私の言う欠陥とは航空機や魚雷に対する欠陥ではない。このような設計当時に想像もできなかった技術の発展に対しての備えなどほとんどの人にはできないからだ。技術的奇襲はそれまでの兵器を一気に陳腐化することはよくあることである。大戦中においてはVT信管が時限信管を一気に陳腐化し、大戦後は核魚雷が、ミサイルのため存在意義がまったくなくなってしまう。ほかにも多数の例が挙げられる。であるからして、航空機と魚雷に関する配慮に関していうのならば後世から評価すること自体が非常に危険なことである。では私の言う欠陥とは何なのだろうか、これも山本先生の寄稿から拝借させていただくのだが、バイタルパートに関してや、船体の区画わけ、機関の配置などである。これは設計時に有力なデータや考え方が出ているという状況から鑑みると欠陥といわざるをえない。わかっていたことに対してきちんと対処しない箇所は欠陥である。
そしてもう一つ、山本先生のおっしゃるとおりなのであるが、時間的発展を考慮していないという点が挙げられる。それは艦艇自体が余裕を持って作られていなかったという点が一つ、平時における技術の信頼性向上に努めなかったという点で二つ。前者は魚雷や航空機のような未知数の技術の出現に対応できるように、装備品にしてもぎりぎりまで船舶に搭載するという行為を避けるべきであったということ。船体そのものに発展性の余地を残すというのは、軍需生産能力が米英といった海軍大国と異なり著しく低かった日本には特に大切だったのではないかと考える。新技術に対して新艦艇を作るというハードルは日本に比べれば米英は非常に低かったといえるからだ。
武器がすでに完結しているという点では、日本の艦艇はすべてすでに完結してしまっていたのかもしれない。
では後者はどういうことなのだろうか?溶接技術を例に挙げてみよう。平賀氏は建艦に際し日本で信頼性が確立されている鋲にこだわった。その理由として溶接の信頼性が向上していないからだということが理由として挙げられているが、それでよかったのだろうか?私が今回、言いたいのは本当に信頼性が低かったのかではない。低くかろうが、高かろうがそれが問題なのではなく、低い信頼性をなぜ戦時中ではない平時において上昇させることに最善の努力を払わなかったのであろうかということだ。藤本氏との心理的確執から来ている部分もあるだろう。しかしなぜだろう?これは海軍のドクトリンである「すべての戦争は一回の艦隊決戦で終結する」という思考に落ち着くのではないだろうか?そしてこれはもちろん既述した「すべての海戦は対馬沖海戦のように」という思考からの帰結なのだが。もう少し、深く解きほぐしていってみると日本の事情で陸軍だけではなく海軍も軍需生産能力が根底に関係しているのではないか?つまり、長期の戦争は不可能であるから、一回の艦隊決戦で戦争を終了させる必要がある。その一回に最高のものをぶつける必要があるから、技術の発展よりもそのとき最高なものを作る必要があった。と考えると平賀氏が信頼性に固執したことを納得することができる。つまり、作る船に失敗はありえないのだ。
結局のところ、大和型に象徴される日本の軍艦建造とはなんだったのであろうか?
兵器とは運用思想によって、そのスペックを規定されることが多い。特に決戦兵器といわれる類ならなおさらである。では日本軍の運用思想とはどこから来ていたのだろうか?それは当時の「帝国国防方針」を読めばわかることだが、「短期決戦」ということに尽きる。特に海軍の場合は「対馬沖海戦」の再現をし、一度の海戦で戦争を終わらす「短期決戦」を実現するという国防方針である。対馬沖海戦があったためこうなったのか、貧乏国家であったためこうなったのかはこの際問題にしない。このような国防方針の下に存在していた軍艦建造方針とはなんであったのであろうか?太平洋戦争が始まるまでの軍艦の運用方針は次の三つの段階からなっている。
1. 潜水艦部隊を米艦隊の所在地に派遣して、 その動静を監視し出撃した場合はこれを追跡触接し、その動静を 明らかにするとともに反復襲撃し、
敵兵力の減殺に努める。
2. 基地航空部隊を内南洋諸島に展開し、敵艦隊がその威力圏に入るや、 陸上航空部隊は母艦航空部隊と協力して航空攻撃を加え、 さらに敵勢力を減殺する。
3. 敵艦隊が決戦場に入るや、 高速戦艦が護衛する水雷戦隊をもって夜戦を決行し、敵艦隊に大打撃を与え、夜戦に引き続き黎明以後、
戦艦部隊を中核とする全兵力を結集して決戦を行いこれを撃滅する。 まさに対馬沖海戦の再現を狙ったものといえる。そして、戦艦が決戦兵器となっていることもわかる。
一回の海戦のみを考える日本海軍にとって、日本の軍艦思想は技術的には生産能力の関係からそのとき最高に信じられる兵器を手に入れようとしたと考えられる。そう考えると、戦艦大和は日本海軍にとっては最適化された46センチ主砲所持艦だったといえるのではないだろうか。非常にドメスティックなご都合主義にこの戦艦はぴったりだったといえるだろう。
そして、もう一つ何よりも大切なことがある。日本は本当に大和を戦闘に駆り出す気だったのだろうか?大和は日本の中でも抑止力としての存在理由を重視されて生まれてきたのではないだろうか?
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