平賀 譲

Jyo HIRAGA

1878-1943

 

 

 

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1
平賀譲先生を考える(山本善之著)について
石田圭輔
2
平賀譲デジタルアーカイブについて
井上幸一
3
 家族的大学と東京帝国大学における新体制
鬼城 渉
 
 
 
 
山本善之「平賀譲先生を考える」について
   
石田 圭輔
 

今回この寄稿にたいして二つの観点から論理展開をしつつ戦艦大和がたとは何だったのかを私なりにまとめてみたいと考える。また、平賀譲を考える際に大和型のみの言及では不十分問い考えからもいくつかの参考文献を加えつつ話を展開できることができたらと考えている。

二つの観点とは何なのか、一つは日本の軍事的ドクトリンと当時の軍事的な世界状況における大和の価値について。二つ目は技術的に大和の評価をどのようにくだすか。特に後者は実際に大和型が使われることとなった第二次世界大戦の技術との比較を山本先生の寄稿をもとに彫り深めようと考えている。

では、早速日本の軍事的ドクトリンと当時の軍事的な世界状況における大和の価値について考えていく。
まず、日本の軍事的ドクトリンについてであるが、大和型が問題になる当時の軍事的ドクトリンを決定することになった日露戦争直後を検証してみる。
三つの観点から日露戦争が後の日本軍に与えた影響を考える。一つは海軍について、二つ目は陸軍について、三つ目は日本の国防ドクトリンについてである。

一つ目の海軍についての影響について考えていく。日露戦争における海軍といえばバルチック艦隊を壊滅させた対馬沖海戦が有名であるが、これが後の日本海軍のあり方を決めることとなる。どれくらい完璧な会戦であったのかその戦果を紹介しておく。38隻のロシア主力艦の中、沈没21隻、降伏・拿捕7隻、中立国に逃げ込み武装解除されたもの7隻、残り3隻の小艦艇が目的のウラジオストックに到達したのみであった。また、一方の日本側の損害は水雷低3隻であった。まれに見るワンサイドゲームである。この海戦があまりにも完璧であったため、この海戦を絶対視し、すべての海戦はこの海戦のとおりに完結すべきということになった。そして海軍がこの海戦を帰結点と考えることですべてはこの海戦を原点とする思考常態になっていく。そして、海戦が結果的にこの戦争終結の重要なポイントとなることで、海戦で勝利した側が戦争に勝利するものと考えるようになる。結果として、海軍は一回の対馬沖海戦のような一回の海戦を作り出すという戦術的思考がほぼすべてとなっていったのである。

次に、二つ目の陸軍について考えていく。陸軍はこの日露戦争後、実に日本人的というほかない変化を遂げる。現在、よく聞かれる「日本陸軍は満足な武器もなく銃剣による突撃のみだった」という法則は日露戦争前の日本陸軍には当てはまらない。なぜならば、明治維新後の日本陸軍は始めこそフランス陸軍を手本としていたが、ドイツ陸軍の信奉者となる。そして当のドイツ陸軍は圧倒的な火力主義軍隊であった。そして当然のごとく日本陸軍も火力の集中などといったドイツ型火力主義へと染まっていく。しかし、日露戦争後白兵主義へと転換していくこととなる。山田朗氏によって三つの原因が挙げられている。一つ目は、戦勝初期はドイツ式の火力主義で戦闘を行っていたが、すぐに弾薬の生産が追いつかなくなったこと。なんと最終的には投石まで行っているということから弾薬の欠乏度が容易に想像つく。二つ目に戦争中の日本軍は、その生産能力が関係しているのであると考えられるが要塞戦にほとんど効果のない榴散弾を主に使い続けたため、砲兵の効果がほとんど見受けられず、砲兵に対して不信感が増してしまった。最後に、ロシア軍がフランス式白兵主義であったため、その白兵にしては損害率が低かったというところに注目したとおっしゃられている。私もこれらがおそらく白兵戦主義転換への主要因なのだと考えられるが、日本人のドメスティックな感情がもっとも影響していると考えられる。つまり、海外と同じ武器生産力をつけるのではなく、現状に合うように組織を変換したということだ。

最後に日本の国防ドクトリンへの影響を考える。その前に先の二つを簡単に振り返る。海軍は一度の主力艦の砲戦を目指す組織となり、陸軍は白兵戦による突撃主義となった。では日本全体はというと、日露戦争によって弾薬の生産力不足と戦費不足に悩んだ結果、短期決戦を目指すこととなる。つまり、最後の大戦のような長期的作戦を戦う能力を目指すことを断念するのである。これは1907年に作成された「帝国攻防方針」によって定められることとなる。また、仮想敵国に関しては陸軍がソ連、海軍がアメリカという軍部で一致しない仮想敵国を育てていくこととなる。これは私の印象としては地政学的にソ連の脅威とアメリカの脅威ということから発生したことというよりも、陸軍や海軍の存在意義を正当化させるための組織防御的な選択によるものと考える。

では大和設計時の戦艦というものに対する世界状況を考えてみることにする。このことについては二つの観点から考えてみることとする。軍事的価値としての戦艦についてである。
まず、軍縮条約に関しても戦艦の軍事的価値に関しても重要な事柄である第一次世界大戦に関して触れていく。特にこの戦争が日本の国防に与えた影響について言及する。今回海軍と対比する意味で陸軍についてもいくつか具体的な話をあげている。そこで第一次世界大戦に関しても陸軍に与えた影響を考察する。具体的には日本の生産能力では世界の陸軍とは渡り合えないということをこの戦争がまざまざと教えたというのが主であったらしい。なぜならば、当時の日産砲弾製造量に触れるだけで明白なことがわかる。具体的に数字を出すと、ロシア11万発、オーストリア16万発、イギリス29万発、フランス31万発、ドイツ44万発であった。一方日本は月産で10万発が可能であると推定されているだけに過ぎなかった。つまり、ヨーロッパ各国は日本が数ヶ月かかって生産する砲弾数を一日で生産してしまうのである。このことによって、先ほどいった軍需能力に合わせた日本式戦術思考である白兵戦主義に染まることとなる。
では海軍はどうなのであろうか?大戦前と大戦中の海上の話を多少したいと思う。大戦前、世界はマハン理論という一つの理論に基づいた大建艦競争時代であった。簡単に言うと、彼は当時植民地政策などでイギリスが成功していたのは強力な海軍によるものだということを歴史を用いて実証した。現に、イギリスは世界第2位と3位の海軍力の合計兵力を保有する方針である「二国標準政策」をとっていた。そんな中、日本はどうだったのかというと建艦競争の象徴でもあるドレッドノートが完成した1906年前後にこの競争に参入した。日露戦争で使用された主力艦はすべて外国製であった。しかしながら戦争中に国内の呉・横浜海軍工廠で主力艦クラスの建造が可能な状態になっている。だが、常にイギリスが一クラス上の軍艦を作ることで完成させた瞬間2流となる戦艦が多かった。そんな中で、日本が競争においてリードする現象がおきる。それは金剛型巡洋戦艦の建造である。この戦艦が完成した当時、この戦艦以上の火力の艦は存在しなかった。しかし、皮肉なことにこの艦を完成させたのはイギリスのヴィッカース社であった。このような中、第一次世界大戦が勃発する。勃発当時の弩級戦艦はイギリス16隻、ドイツ17隻、フランス3隻、アメリカ8隻、日本2隻であった。大戦中、日露戦争における対馬沖海戦のような艦隊決戦はおきなった。ただ一度だけユトランド海戦があるが、これにしても主力艦の損失としてはイギリスが3隻、ドイツが1隻であった。対馬沖とは非常に差があることがわかる。そして、この戦争終結に寄与したのは艦隊決戦ではなく、国民の意思の反乱であった。つまり、この時点で世界中の人間の意識の中では最終兵器として戦艦が存在していたが、おそらく戦艦はその役目を終えていたのだろう。
ではなぜ、ポストユトランド型から始まる建艦競争が始まったのだろうか?

(戦争中におこったユトランド海戦ではイギリスの最新鋭巡洋戦艦が沈んだことから、ポストユトランド型といわれる重装甲かつ巨砲の搭載という更なる大艦巨砲へと世界は傾倒していくこととなる。)

大戦後あまりにも世界中が建艦競争に傾倒するあまり、各国の国家財政を脅かすこととなっていく。具体的な例を挙げると日本では1921年度の海軍予算は国家予算の31.6%にもなっており、軍事費全体では49%にもなっていた。一方アメリカに関しても連邦予算に占める軍事費の割合は1921年度には35%に達していた。そうして建艦競争がヒートアップしていった最後に軍縮という形で落ち着くのである。
この時期の戦艦の存在意義はなんだったのだろうか?差し迫った軍事的脅威が存在していたとは考えられない。ということは脅威に対抗して作っていたというよりも戦艦を利用したパワーポリティクスに陥ったのではないだろうか?つまり、戦争の道具としての存在よりも無政府状態における世界で発言力を増すための道具として使われたと考える。現に発言力よりも大切な国家財政破綻という難題の前では各国とも軍縮に調印している。つまり、戦艦の存在意義が国家の死活問題になっていなかったということがわかる。
軍縮条約の期限が切れることを見越して、各国が建艦競争を再開するわけである。莫大な資金と資材を使い戦争にはほとんど役に立たないものを。戦闘をするためという意味合いよりも、存在することでこそ役に立つといった意味合いに変わったものを作り始めたのである。以上のことから言えることは、大和型は理想的な使用方法ではなかったのではないかという結論に達する。つまり戦争をしないならば大和型はすばらしい兵器であったが、戦争を始めた瞬間陳腐化してしまう存在だったと結論付けることができる。まとめると、まず、戦艦は純然たる兵器として存在し、次に政治的発言力を増やすため現在核兵器がおかれているような抑止力となった。そして最後にはモニュメントとしてのみ存在価値があったといえる。

では、技術的に大和型はどうであったのだろうか?詳しくは山本先生の寄稿を読んでいただきたい。ではそこから考えうることは何なのだろうか?二つの観点から検証してみる。一つ目は技術的な大和の評価、二つ目は技術的な大和型の価値である。
一つ目の技術的な評価をしてみる。そうするといくつかのことが言えてくるのであるが、山本先生がおっしゃるとおり大和型にはいくつかの受け入れられない欠陥がある。私の言う欠陥とは航空機や魚雷に対する欠陥ではない。このような設計当時に想像もできなかった技術の発展に対しての備えなどほとんどの人にはできないからだ。技術的奇襲はそれまでの兵器を一気に陳腐化することはよくあることである。大戦中においてはVT信管が時限信管を一気に陳腐化し、大戦後は核魚雷が、ミサイルのため存在意義がまったくなくなってしまう。ほかにも多数の例が挙げられる。であるからして、航空機と魚雷に関する配慮に関していうのならば後世から評価すること自体が非常に危険なことである。では私の言う欠陥とは何なのだろうか、これも山本先生の寄稿から拝借させていただくのだが、バイタルパートに関してや、船体の区画わけ、機関の配置などである。これは設計時に有力なデータや考え方が出ているという状況から鑑みると欠陥といわざるをえない。わかっていたことに対してきちんと対処しない箇所は欠陥である。
そしてもう一つ、山本先生のおっしゃるとおりなのであるが、時間的発展を考慮していないという点が挙げられる。それは艦艇自体が余裕を持って作られていなかったという点が一つ、平時における技術の信頼性向上に努めなかったという点で二つ。前者は魚雷や航空機のような未知数の技術の出現に対応できるように、装備品にしてもぎりぎりまで船舶に搭載するという行為を避けるべきであったということ。船体そのものに発展性の余地を残すというのは、軍需生産能力が米英といった海軍大国と異なり著しく低かった日本には特に大切だったのではないかと考える。新技術に対して新艦艇を作るというハードルは日本に比べれば米英は非常に低かったといえるからだ。
武器がすでに完結しているという点では、日本の艦艇はすべてすでに完結してしまっていたのかもしれない。
では後者はどういうことなのだろうか?溶接技術を例に挙げてみよう。平賀氏は建艦に際し日本で信頼性が確立されている鋲にこだわった。その理由として溶接の信頼性が向上していないからだということが理由として挙げられているが、それでよかったのだろうか?私が今回、言いたいのは本当に信頼性が低かったのかではない。低くかろうが、高かろうがそれが問題なのではなく、低い信頼性をなぜ戦時中ではない平時において上昇させることに最善の努力を払わなかったのであろうかということだ。藤本氏との心理的確執から来ている部分もあるだろう。しかしなぜだろう?これは海軍のドクトリンである「すべての戦争は一回の艦隊決戦で終結する」という思考に落ち着くのではないだろうか?そしてこれはもちろん既述した「すべての海戦は対馬沖海戦のように」という思考からの帰結なのだが。もう少し、深く解きほぐしていってみると日本の事情で陸軍だけではなく海軍も軍需生産能力が根底に関係しているのではないか?つまり、長期の戦争は不可能であるから、一回の艦隊決戦で戦争を終了させる必要がある。その一回に最高のものをぶつける必要があるから、技術の発展よりもそのとき最高なものを作る必要があった。と考えると平賀氏が信頼性に固執したことを納得することができる。つまり、作る船に失敗はありえないのだ。

結局のところ、大和型に象徴される日本の軍艦建造とはなんだったのであろうか?
兵器とは運用思想によって、そのスペックを規定されることが多い。特に決戦兵器といわれる類ならなおさらである。では日本軍の運用思想とはどこから来ていたのだろうか?それは当時の「帝国国防方針」を読めばわかることだが、「短期決戦」ということに尽きる。特に海軍の場合は「対馬沖海戦」の再現をし、一度の海戦で戦争を終わらす「短期決戦」を実現するという国防方針である。対馬沖海戦があったためこうなったのか、貧乏国家であったためこうなったのかはこの際問題にしない。このような国防方針の下に存在していた軍艦建造方針とはなんであったのであろうか?太平洋戦争が始まるまでの軍艦の運用方針は次の三つの段階からなっている。

1. 潜水艦部隊を米艦隊の所在地に派遣して、 その動静を監視し出撃した場合はこれを追跡触接し、その動静を 明らかにするとともに反復襲撃し、 敵兵力の減殺に努める。
2. 基地航空部隊を内南洋諸島に展開し、敵艦隊がその威力圏に入るや、 陸上航空部隊は母艦航空部隊と協力して航空攻撃を加え、 さらに敵勢力を減殺する。
3. 敵艦隊が決戦場に入るや、 高速戦艦が護衛する水雷戦隊をもって夜戦を決行し、敵艦隊に大打撃を与え、夜戦に引き続き黎明以後、 戦艦部隊を中核とする全兵力を結集して決戦を行いこれを撃滅する。 まさに対馬沖海戦の再現を狙ったものといえる。そして、戦艦が決戦兵器となっていることもわかる。

一回の海戦のみを考える日本海軍にとって、日本の軍艦思想は技術的には生産能力の関係からそのとき最高に信じられる兵器を手に入れようとしたと考えられる。そう考えると、戦艦大和は日本海軍にとっては最適化された46センチ主砲所持艦だったといえるのではないだろうか。非常にドメスティックなご都合主義にこの戦艦はぴったりだったといえるだろう。


そして、もう一つ何よりも大切なことがある。日本は本当に大和を戦闘に駆り出す気だったのだろうか?大和は日本の中でも抑止力としての存在理由を重視されて生まれてきたのではないだろうか?

参考文献・HP
関西造船協会誌「らん」(No.37〜No.40)寄稿文書
「平賀譲先生を考える」山本善之
軍事史学会編『第二次世界大戦—発生と拡大』(1)(錦正社、1990年)
「日本海軍の対米作戦計画—邀撃漸減作戦が太平洋戦争に及ぼした影響」平間洋一
「軍備拡張の近現代史」 山田朗
 
   
 
   
平賀譲デジタルアーカイブについて
   
井上 幸一
 
●はじめに
平賀譲の遺した文書をデジタルアーカイブ化するにあたり、既存のデジタルアーカイブの事例調査など、デジタルアーカイブについて調べた結果、平賀譲デジタルアーカイブの内容を以下のように提案する。
 
●概要
デジタルアーカイブについては以下の2種類を作成する。
A. 初心者向けミュージアム
B. 専門家向けデジタルアーカイブ 
 
●各アーカイブについて
A. 初心者向けミュージアム
・ 目的
平賀についてよく知らない人が、図面や手紙などを見ながら平賀のことを学べるようなミュージアムを製作する。

・ 概要
平賀の一生をいくつかの時代で区切り、その時代の代表的な図面や手紙などを見せながら、ツアー形式で平賀のことを知らない人に楽しんでもらう。
また、ツアー形式と同時に平賀譲HPの略歴から関連する画像にリンクを貼り、平賀の描いた図面などを見ながら平賀の一生を辿ってもらう。

・ 注意点
① 掲載画像の選定について
    1. 掲載写真は、マニアックなものを載せない
    2. 一般的に興味を引くようなもの
② 掲載画像のサイズについて
   1. 詳細な画像を掲載する必要はない
   2. 軽さ、見た目の分かりやすさを重視する

 
B. 研究者向けアーカイブ
・ 目的
研究者、平賀譲についての資料を調査したいと思った人にデジタルアーカイブを提供する

・ 概要
検索イメージ図


・ 画像形式について
① JPEG形式
② 2サイズの画像を用意する
③ 大きい画像は拡大して文字が読める程度の解像度
(参考) National Archives of Singapore

・ 検索方法について
① フリーワード検索
   1. 標題
   2. 備考
   3. 差出人(書簡のみ)
   4. 宛先(書簡のみ)
② 年月日
③ プルダウンメニューから検索
 大分類(艦船関係、辞令・パンフレット、雑誌記事スクラップ等)、それ以上の分類は無理か?

 
●特長
 他のデジタルアーカイブにない特長としてインタラクティブなアーカイブを目指す。既存のデジタルアーカイブでは、製作者の設定したキーワードやその他の情報から検索することしかできない。そこで、本アーカイブではユーザーによるキーワードの追加、あるいはアーカイブ上に自分のワークスペースを作れるようにしたいと考える。例えば、ある研究グループが平賀譲の研究をしたいと思ったときに、本アーカイブから必要なデータをオンラインでグループ化し、独自のキーワードを付加して整理する。そのグルーピングが他の利用者にも参照できるようになるというような、静的ではない、成長していくようなアーカイブを構築することが目標である。
 
 
参考文献・HP
デジタルアーカイブの構築と運用 笠羽晴夫著 水曜社
東京国立博物館
国立公文書館・所蔵資料の紹介
ニューヨークメトロポリタン博物館
大英博物館・子供版
MOMA
JAXAデジタルアーカイブス
故宮博物院
National Archives of Singapore

 

 
 
 
   
家族的大学と東京帝国大学における新体制
   
鬼城 渉
 

【概要】
経済学部問題の解決いわゆる「平賀粛学」が完了した後の昭和15(1940)〜昭和16年にかけて,平賀は東京帝国大学における「新体制」の実現に着手する.ここで平賀が掲げたスローガンが「家族的大学」である.本稿は以下,平賀の家族的大学とそれに基づく大学内での新体制について述べる.

 

【時代背景】
経済学における「平賀粛学」が終了した平賀にとって懸案事項は泥沼に陥った日中戦争という時局において大学の外部より大学内部の自治をいかにして守るかと言うことであった.
昭和15年7月22日第二次近衛文麿内閣が成立する.新体制とは近衛の造語であるが,その実は戦時挙国一致体制と考えられる.昭和15年時点で新体制に関する考慮すべき点は,対米全面戦争はまだ現実のものとなっておらず,この新体制は国家による総動員態勢と言うよりむしろ戦時下における思想的・精神的統一を図るという側面が大きいということである.この新体制運動の結果として運動大政翼賛会が成立し「バスに乗り遅れるな」というばかりにすべての政治政党が解散し,日本全国の地域組織をも取り込んだ上意下達の組織が成立する.
このような時運の中で国家の最高学府たる帝国大学も新体制の一翼として機能することを要求されたのである.

 
【東京帝国大学における新体制の目的】
平賀は首都東京にある帝国大学の総長であったため他の帝国大学総長より文部省との交流もあり,また「新体制準備会」の委員でもあったため,来るべき新体制において帝国大学も外部より統制を受けるという危機感を抱いていた.新体制という名の下に外部から大学自治に介入される危険を防ぐ対策として,帝国大学側が先手を打って大学内部に新体制に対応した組織を構成することが考えられた.つまり,外部(直接的には文部省)が取り決めた大学の構成案に従い外部組織の侵入を認め自治を失うのではなく,案が示された際に東京帝国大学はすでにその案に合致する自己組織改革を行ったとすれば外部からの侵入を防止できるというのである.従って,東京帝国大学内に独自の新体制を早急に作り上げる必要があったのである.
さらに,新体制を作り上げる目的として学内の沈静化がある.経済学部の混乱のように当時の大学内にはともすれば学生および教授内で左翼・右翼による派閥対立を招きかねず,結果として外部に隙を与えてしまうという危険性をはらんでいた.新体制運動においても,大学が策を講じなければ学内で右翼による展開されたであろうし,それに伴って左翼側の運動もまた興ったであろう.従って,大学当局が自ら新体制を構成することによって,右翼側の活動を先回りして押さえ,学内の沈静化を可能とした.結局のところ東京帝国大学における新体制は「仏作って魂入れざる」と批判を受けることになるがむしろ「魂入れざる」は当局の意図した結果といえる.
以上,東京帝国大学における新体制の目的は結局のところ大学自治を守るということであった.
 
【家族的大学論】
東京帝国大学における新体制の基盤となったのが平賀の家族的大学論であった.
平賀は昭和15年4月12日の創立記念日の式辞において「大学に国家の機構内に於いて容され得る限りの自治が,慣行上認められてゐるのも,全く大学を挙げて一大家族となり,学問の権威を確立し,教育,研究の最大効果を揚ぐるに最前の方法と考えられてゐるからであると存じます.この大学自治も,その根源は我々一人一人の自治に存し,一人一人の自治とは各人自ら治め,若しくは自ら律することに存するのであつて,即ち自ら身を修め,学に精進し,自己を立つると共に他をも立て,全体の為に小我を捨て,自己を犠牲とするも厭はざるの家族的精神が,その根底をなすものと信じます」と述べている.
ここで注意すべきは家族というと前近代的な上意下達で個人よりも全体が重んじられるという家族を想起するかもしれない.しかし,平賀の説く家族とはあくまでも自立した個人を基礎におく家族であり,その個人が自ら全体の為につとめることによって大学として教育と研究において最大の効果をあげることであった.当時の無批判的に国家への精神的同一化が叫ばれ全体主義が台頭していた時勢に対して,平賀の家族論は鋭い批判であるとも考えることが出来る.
 
【東京大学における新体制】
東京大学の新体制として,平賀は全学会という組織を新たに発足させ,そこに中央集権的性格を持たせるという原案を作る.これによって,全教授全学生を大学当局の統制下におき,当局の指揮下で有効に動員可能な体制を目指した.この全学会の原案はそれまでの学部教授会,評議会主導の大学経営を否定することになり,学部教授会からの大きな反発を受けることになる.結果として,昭和16年4月に発足する全学会は,あくまでもこれまでの教授会・評議会を優先することになり,原案の中央集権的色合いからはかなり後退したものとなる.しかしながら,このように当初描いたものとは異なる形で成立した全学会であったが,東大当局が学内の刷新に努力しているという姿を内外に示すだけでも,平賀が守ろうとした大学の自治を守る役割はあったと言える.
このように,東京大学は政府に先んじて独自の新体制を形成し,昭和16年4月までに学内で新体制を成立されるに至った.しかし,昭和16年10月には徴兵のための在学期間短縮と徴兵猶予期間の短縮が決定され,さらに文部省の強力な方針による「東京帝国大学報国隊」という新たな学内組織の結成を強制された.昭和15年の新体制の目指した思想的・精神的統一とは異なり,もはやこの報国隊は,国家総動員の一翼を担う大学内組織であり,当時もはや日米開戦がさけられない状況で,警防・消化・学校教練などの訓練,食糧増産・工場への勤労出勤に対する動員を目的としていた.ここにおいて,全学会はその存在意義を失い,大学は後に続く学徒動員など終戦までその自治権を失っていくこととなる.
 
【考察】
平賀の説いた家族的大学論から,当時の全体主義的風潮に対する平賀の鋭い批判と中庸的精神を伺うことが出来る.新体制という名のものになし崩し的に思想を統一し,視野を狭めようとしていた当時の時流に対して,技術者として広く知識を求めてきた平賀は危険性を察していたものと感じられる.
また,平賀の行おうとした東京大学における新体制の実現は,外見的には大学の新体制の積極的実現というものであるが,その実は政府に先んじて改革を行うことによって,大学の自治という実利を守ろうとしたものである.ここからも,外見よりも内実を優先するという平賀の実利主義的な面が伺える.
 
参考文献・HP
宮崎ふみ子, 東京帝国大学「新体制」に関する一考察--全学会を中心として--, 東京大学史紀要,第1号, 東京大学百年史編集室, 1978年2月
内藤初穂, 軍艦総長 平賀譲, 文藝春秋